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GOLGOのひとりごと

『八つ墓村』をめぐる冒険

2025.06.17

私と同世代以上の人なら『八つ墓村』のブームを覚えているかもしれない。志村けんの「八つ墓村のたたりじゃ〜」というギャグで知ったその映画をテレビ放送で初めて観た時、9歳の私は画面の向こうにある異様な何かに凍りついた。 1977年の松竹映画版で山﨑努が演じた田治見要蔵の姿は、鮮烈な恐怖として私の心に焼き付いた。それこそ夜ひとりで寝られないくらいに怖かった。
今回、ふとしたきっかけでこの作品を思い出した時、この恐怖の正体は何だったのか、改めて考えてみたい気持ちになった。

改めて小説版の原作をkindleで探してみた。そこで何気なく読んだレビューがとにかく高評価で、単に星の数が多いという意味ではなく、そこに書かれている感想が心からの賛辞に満ち溢れていたことにとても驚いた。
確か高校生くらいの時に、表紙のイラストのおどろおどろしさにビクつきながら文庫本のページを捲った記憶はあるのだが、ストーリーの細部まではとても覚えていなかったのだ。

そしてネットで1977年版の松竹映画『八つ墓村』 を見た。
私が一番恐ろしかった田治見要蔵の映像をコマ送りにして詳細に観察した。
確かに不気味だった。夜にトイレに行くのが億劫になるほどだ(笑)
更に1978年に放送されたテレビドラマシリーズも見てみた。
こちらも多少の改変はあるものの、田治見要蔵の行動などは変わらなかった。
にもかかわらず、こちらの方はあまり怖く感じないのだ。このあたりにヒントがあった。

まず第一に、松竹版の要蔵の「見た目」がある。青白い顔、一貫して感情を見せない虚ろな眼。映画で描かれた要蔵の姿は、人間であるはずなのに人間ではない、いわば「ヒトという記号のエラー」として映った。おそらく私たちは「死体」「幽霊」「骸骨」といった、ヒトの輪郭を保ちつつそれを逸脱する存在に本能的な嫌悪と恐怖を抱くのではないか。もしかしたらそうした本能が疫学的な生存確率を高める効果があったのかもしれない。子どもの頃に老女の顔を見て怖いと感じた記憶にも通ずる。それは、老いや死が目前にある「ヒトのエラー」として感知されるからではないか?
松竹版の 田治見要蔵の映像には、そうした視覚的・生物的な特徴があった。
一方、ドラマ版では要蔵がむしろ人間らしく描かれており、暴力を振るうシーンでさえも悲しみや苦悩の表情が伺える。

もうひとつの要因は「エディプス・コンプレックス」だ。母を愛し、父を恐れる潜在的な心理。9歳の私にとって父親とは肉体的にも経済的にも絶対に逆らえない強さをもつ存在だった。そして『八つ墓村』の主人公・寺田辰弥も、出生の秘密をめぐり、要蔵との間に恐ろしい宿命を負っていた。物語の冒頭では、赤ん坊だった辰弥の背中に要蔵が焼け火箸を押し当て、ジューっと肉の焼ける音が鳴るシーンがある。
視聴者として辰弥に感情移入すればするほど、要蔵への恐怖や対抗心に子供心で共感したに違いない。

一方、小説版の辰弥は恐怖に慄くばかりではなく、積極的に自分の運命と対峙し、困難に立ち向かい、やがてハッピーエンドが訪れる。
この物語で金田一耕助や辰弥が立ち向かった相手とは何だったのか。
私は小説版を読み終えた後、この物語のモデルとなった1938年の「津山事件」についても調べてみた。そして作者・横溝正史の生涯についても。
やがて当時の時代背景を考察する中で9歳の頃にはわからなかった社会的背景が見えてきた。
それは結核と閉鎖的な村社会だった。

今と違って当時の結核は不治の病で、死亡原因の一位を占めていた。昭和初期を舞台にした宮尾登美子の小説を読むと、クラスにひとりくらいは結核で命を落とす者がいた様子が描かれている。
作者の横溝正史自身も、結核によって長らく田舎での療養生活を余儀なくされていた。そして、疎開先の岡山の山村での生活としばらく前に県内で起こった津山事件などからこの小説の着想を得たという 。
特に津山事件の犯人・都井睦雄(田治見要蔵のモデル)は、その遺書や関係者の証言などから村社会の閉鎖性(村八分)と結核によって苦しめられていた被害者でもあったことがよくわかる。

小説版の最後では、辰弥が放棄した田治見家の財産と埋蔵金はセメント工場建設の資本金となり、農村に近代的産業が構築される。
不治の病であった結核は戦後、抗生物質やワクチンの発明により死因上位から姿を消す。元薬剤師の横溝は「ストレプトマイシンという薬が無かったら、あの世へ行っていただろう」と後に語っている。 彼自身が近代の力の強さを感じていたのだろう。

テレビ放映当時9歳だった私は、松竹映画「八つ墓村」を見て恐怖に慄いたが、単なる怖さだけならそれほどこの作品に興味を惹かれることもなかったかもしれない 。
恐怖のベールの向こうには、日本のリアルな近代化の歴史があった 。
前近代の貧困・迷信・血縁や家の呪縛・病による抑圧とそれらを克服する「近代的科学と理性の光」 。
私が8歳まで住んでいた1970年代の長浜の田舎でも、友人の祖母などを通して前近代の影を感じるできごとは多々あった。
現代に生きる私たちにとっては、結核や村社会の閉鎖性などは到底リアリティを持ち得ないし、想像の範囲外かもしれないが、この作品の恐怖を解体する冒険を通じて、近代化がいかに人類に大きな光を当てたかを実感することができた気がする。

そして最後に、現代の世にも孤立や疎外に苦しむ田治見要蔵がいることを忘れてはならない。物質的には豊かになっても、人の心の闇はあの頃と変わらないままなのだ。

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